北九州ホームレス支援機構 奥田知志さんの講演を聴いて来ました

NHKをご覧の方なら、もしかしたらお名前くらいはご存知かもしれません。この方は教会の牧師さんなのですが、北九州のいわゆる路上生活者の支援を 今も継続的に行い、今何が問題なのかを講演していらっしゃる方です。
まずテレビでもおっしゃっていたことのおさらいから始まります。北九州市は数年前に門司区で餓死者を出してしまいました。公式な発表は「孤独死」ということでしたが「あれは餓死だ」とはっきり奥田氏は言います。日本という国に社会がある以上、決して餓死者を出してはならないのだ、とも。
さて、では社会とは一体何のことか、という話になりますと「赤の他人が人と関わりを持つこと」と明確に提示されました。しかしながら今、その社会はおかしなことになっている。それは路上生活者の意識を通じてひしひしと感じることでいわゆる「ホームレス」と呼ばれる人たちが急増した97年から99年にかけては50〜60代の人たちが多かったのだがリーマンショックを経験した08年以降は若年層が急増したそうです。
そんな若年層の人を路上で発見すると声をかけてまわるそうなんですが路上生活者が派遣切りに遭い、困窮しながらも「こんなことになったのは自分の努力や頑張りが足りなかったから」と口をそろえて言う、とのことでした。だから故郷にも帰ることができない、と。
つまり現在の、いわゆる「社会」という概念から程遠い「孤立無縁」状態を作り出したのはこの「自己責任論」なのだ、と何度もおっしゃってました。
例えば、数年前イラクに行って武装勢力に拉致され、生きたまま首を切られ無残な状態で発見された青年の事件を覚えていらっしゃいますか?あの事件が起こったときの政府の公式見解は「自己責任」でした。確かに、危険地域と政府が入国を制限した中、イラクに出向いた青年の責任も一方ではある、しかし「国」という「社会」が個人を「すべては自己責任だ」と公式の場でばっさり切り捨てたことに、奥田氏は怒りを隠しませんでした。そして「自己責任論」とは助けないための理屈であり、本来は自己責任とは社会の責任との両輪で動いているものでありどちらか一方では成り立たないものだとおっしゃいました。
さらに、自己責任論と同じくして他人に「助けて」と言えない状況が生まれてしまった。それはご自分も含めてのことだそうです。ある元路上生活者はこう話したそうです。
今のこの状況を生み出したのは自分の頑張りが足りないからだ、とずっと思ってもうちょっとがんばってみよう、もうちょっとがんばってみようとやっているうちにとうとうお金も尽きて食べるものも買えなくなって意識を失ってしまった。目が覚めたら病院のベッドの上で、周りを見たら看護師さんは優しくしてくれるしお医者さんは親身になってくれるし、周囲にはこんなに人がいることに気付いた。そのときはじめて「助けて」と言えた。自分が助かったのは「助けて」と人に言えた日なんだ。
また、奥田氏は「ホームレス」というのは本当は家があるのに誰も心配してくれない、帰る家のない人たち、例えば路上生活者を夜中の1時に襲撃してまわる子どもたちも含めその家に自分の存在価値を見出せない人たちのことを言うのであって物理的に家のない人たちは「ハウスレス」なのではないか(もちろんハウスレスのホームレスもいるでしょうが)という見解を示し、社会全体がホームレス化していることに対して危惧を抱いていました。
日本中がホームレス化している中、もっとも大切なことは絆であって絆の喪失は自己の存在意義の喪失、尊厳の喪失を促すのだとおっしゃっていました。
そして未来に対してこんな見解を示しました。
戦後は満足を求めた社会であったけれど、これからは経済的にも必ずしも満足を求められる時代ではなくなっていくかもしれない。でも満足と幸福とは果たして同等なのだろうか。「満足」ではない、「幸福」の追求をしていかねばならないという転換点にきているのではないか。
牧師さんらしい、と言ってしまえば身もフタもありませんが私たちもこの「ホームレス化」していく社会の中でいつ「ハウスレス」になってもおかしくないのです。そんな中、やはり満足=幸福という図式を疑うことは非常に重要なのではないかと感じるのです。
(報告;藤木雪絵)
関連図書

「ブックレット 菜の花 13 ホームレスと人権」
九州ホームレス支援団体連合会 編

¥1,050
ISBN978−4−938725−33−4 C0336
http://www2.odn.ne.jp/~aau85780/