トークセッションを終えて―集団蜘蛛の磁場から現在を見据えて―

 森山安英の営為と沈黙、そして現在に、私たちはどう出会い直すことができただろうか。私は、本セッションにおいて明らかになったのは、以下のことではないかと考える。「浮き足立った日常への抵抗」「隠匿と忘却の暴力」「自由を求める何者でもないものの生き様」「既成の枠組みを越えしなやかに行動する明確な意志」。
 60年代末から70年代初頭、集団蜘蛛は、反体制・反芸術の風が国内を吹き荒れる時代の中、政治活動家や前衛芸術家たちの熱狂を横目で睨みながら「否定の否定」という姿勢で芸術を無化し自滅に至るプロセスを体現してみせた。本セッションにおいて森山は、集団蜘蛛は、未来や進歩を信じる芸術の可能性ではなく、芸術の不可能性の問題だった、やればやるほどいろんな問題を引き寄せてしまう、それが集団蜘蛛の本質だった、と述懐している。
 なぜ、集団蜘蛛そして森山は、自滅へと至るプロセスを体現したのか。この問いに明確に答えることは私には当然できない。しかし、集団蜘蛛そして森山は、当時の日本の中にあった、過去を忘れ、自分たちの等身大の惨めな姿を正視せずに、政治だ、芸術だと声高に叫ぶ浮き足立った日常に対峙し、それらすべてに抵抗せよ、という強烈な社会批判、そして自己批判の意識を持っていたのではないかと考えるに至った。集団蜘蛛の終焉と期を同じくして、時代は、巨大な資本主義社会の中に巻き込まれていく。芸術や政治の問題は、すべて経済によって回収され、快楽の追求と欲望の肯定、そして今日のポスト資本主義社会へと通じる状況へと移っていく。そこで、私たちは何を見失い、そして今、何を見つめねばならないのか。
 この現在の情況を切り開くためのヒントを、麻生晴一郎氏と毛利嘉孝氏は私たちに示してくれた。麻生氏は、かつて自分には自身に付与する意味がない単なる肉塊が移動しているのではないかという妄想を抱くことがあったことを述べた上で、芸術村の若者たちに受け入れられた理由の一つは、彼らと同じように麻生氏自身も何者でもない存在であったことだったと述べている。麻生氏は、その「何者でもなさ」の中に胚胎する明確な自由への意志に、現代社会を切り開く可能性を見出していた。次に、毛利氏は集団蜘蛛の時代背景を考察し今日の世界情況を鋭く分析した上で、現在、新しい芸術の運動が生まれてきていることに光を当てた。具体例として挙がったアクトアップ、リクレイム・ザ・ストリーツの活動には、数え切れない人たちが関わり、その既成の枠組みを越えしなやかに行動する明確な意志とアナーキーさの中に確かな可能性を見出していた。
 そして、本セッションで明らかになったことの一つとして、自由を謳歌していると思える今日の日本、そして私たち自身の中においても様々な暴力が作動していることである。その最たる例が、毛利氏が指摘したネグリの来日拒否の際に露わになった情報統制・隠匿の暴力であり、私たち自身の中で作用している忘却の暴力である。現代社会はいくつもの暴力が作用しあい、日常を構成する。この現在への抵抗の形としても、集団蜘蛛、森山の営為は読み直すことができるように思える。森山、そして集団蜘蛛は、現在も尚、多くの問いを私たちに投げかける。(幹)