なんのためのアート? 番外編

 最近、NHKの地方ニュースで、飯塚のシニア向け音楽合唱団の特集をやっていた。指導をするのは地元の元音楽教師でご年配の生徒に「楽譜は読めなくてもいいんですよ。一緒に楽しみましょう。」と呼びかけ、今では生徒さんたちからは「こんなに楽しいとは思わなかった」という感想が聞かれている。また、同じ先生が今度はシニアの男性合唱団を作り、こちらも大盛況なのだそうだ。この先生は飯塚に2つもシニアの方が楽しめる場所を作ったことになる。なぜシニア向けかというと、若い人たちが合唱団に混じると上達のスピードなどでついていけなくなり、シニアの方が楽しくなくなると危惧したからなのだそうだ。
 また、あるNHKのバラエティ番組で「美術館を楽しもう」という主旨のテーマが取り上げられたが、最初に流れたVTRでの街頭インタビューで「なんであんなつまらないものにわざわざお金を払ってまで行かなきゃならないのか、意味がわからない」と答えた方がいた。ここからはあくまで想像であるが、おそらくこう思っている人は他にもたくさんいるだろう。でも彼らの中にはきっと映画館やライブなどには高いお金を支払ってでも見に行っている人は少なからずいるばずなのだ。日本の美術館へ行ったときの、あのしんと静まり返った空間は多くの人にとっては非日常で、実生活にはなんら役立たないものであることはもはや明確である。
 では合唱団には心の垣根をやすやすと飛び越すことができて、アートにはそれがなかなかできないのはなぜなのだろうか。私がいつも思い出すのは、以前訪れたN.Y.のP.S.1やメトロポリタン美術館が非常に気さくなムードだったということへの驚きである。特にP.S.1では短パンのお父さんがベビーカーを押し、もう一人子どもを抱っこして抱えながら、買い物でも楽しむかのように「ごく自然に」アートを楽しんでいた。日本の美術館でこんな光景に出会ったことは、少なくとも私はない。
 動物をテーマに作品作りをしている友人から聞いた話によると、アメリカでは動物園というところは公的教育機関と位置づけられているそうだ(確か)。そして親子連れで訪れると、スタッフは例えば「ガラスを叩くと動物はものすごくストレスを感じる」とか「フラッシュは動物にはきつすぎる」「大声で叫ぶとびっくりするからしてはいけない」などの動物園でのマナー等を徹底的に教えるのだそうだ。つまり、アメリカでは「ここまではしてもいいけど、ここからはダメ」という境界線を、かなり早いうちからしっかりと教えているということになる。これが美術館への気さくなムードにも繋がっていると考えるのは少々強引だろうか。
 先日参加したシンポジウムで、ある作家さんが言った言葉が忘れられない。彼曰く「美術館というところは、作品の墓場なんです」。日本の美術館は墓地なのだと考えると、なにかおいそれとは近づけない、ピンと張り巡らされた独特なあの空気の意味になんとなく合点がいってしまうのである。(雪)