なんのためのアート? 上半期総括

 はやいもので年が明けてから半年以上が経った。前半は体の調子が思わしくなかったものの、ここ数ヶ月は精力的にこの場でいろいろとアートに関しての考察が行えたように思う。少し時間が経ってしまったが、この上半期を振り返ってみたい。
 まず私が常に感じていること、ちょっと居心地悪く思うことは、美術館に行くとなにか「ありがたい」ものにでも出会ってしまったかのような、あの独特な雰囲気である。美術館とは非常に不思議な空間だ。あの白い壁に掛けられ、キャプションがつく物は「ありがた」くても、同じものがその辺に無造作に置いてあれば「ありがたく」思っていた人たちの大半はきっとそうは思わないだろう。私を含め、おおよそ人というモノは自分の価値基準や感覚に自信がいまひとつ持てないものである。だから高価なブランド物を持ちたがるし、ある程度保険が効いた価値を何の疑いも持たずにそのまま受け入れもするのだ。有名な作家、美術館に飾られる作品は、そのすべてが賞賛に値する、ということになる。ここに私なんかの個人的感想なんて恐れ多くて…、などとつい思ってしまう。だがちょっと待ってほしい。こう感じながら美術館を歩いて回ることは本当に楽しいのだろうか。ちょっとナナメから作品を見て、「この人は有名で多作ですごいなとは思うけど、全部がすごいわけじゃないな」とか「有名だってそれが一体どんな影響を私にもたらしてくれるの?」などの疑問を持ち、自分の感覚を揺さぶることこそ美術の持つ醍醐味ではないかと私は考えるのだ。
 少々話はそれるが、それらのブランドを含めた「流行」というのはいつ頃つくられているのかご存知だろうか。もちろん流行というのはその大半が人工的なものであり、2,3年前から色の傾向、生地の質感や素材まで会議ですべて決められているのだ。
 アートはブランド品とはもちろん違うが、その「揺さぶり」を大いに楽しむほうがはるかにわくわくはしないだろうか。人のつくったお仕着せの価値基準にただため息をつくのではなく、新たな「私だけの」アートを探そうではないか。作品の意味を知りたければとことん調べ尽くしたらいい。そのアートが自分にとって「わけもなく」心地よければその前にずっと佇んでいて構わない。そんなことをしていると、不思議なことに浜辺に何気なく置かれた碇※註でさえも美術作品に見えてきたりするものなのだ。(雪)
※註 以前、直島の浜辺の大竹伸朗の「シップヤードワークス」の傍に何気なく置かれていた碇は、本当に美術作品かと思いみんなでキャプションを思わず探してしまった。