街にとけこむということ

わたしには「ジモト」という感覚がない。いつもどこか「ヨソモノ」であることを意識して生活している。それはわたしにとって「実家」という考え方がないからだ。この「実家」というやつはすでに崩壊していて、寄る辺なさを感じて切なくなることもしばしばある。そんなヨソモノがジモトの人々と触れ合うということとはどういうことだろう。
昨日わたしは演劇のワークショップを通じて「ジモト」の人々と触れ合っている活動をしている人たちの存在を知った。そのワークショップを引率している人も「ヨソモノ」だ。彼らの活動はどんなものだろう。これは体験してみる価値がある。
また、カルチュラル・タイフーンで見つけ岡山に出向き、そこで出会った「朝鮮学校ダイアローグ」を開催していた人々たちは「ジモト」という感覚に非常に閉塞感を感じていると言う。そのようなお話をされた岡山の方は「ジモト」という感覚をどう捉えているのだろう。
人々の記憶をとても大切に考えている、toboでも取り上げたremoの方は8mmというホームビデオを介して「記憶のアーカイヴ」をしている。recipは変幻自在にその土地にするりと滑り込み、様々な人々を繫いでいる。ココルームは釜ヶ崎という土地にしっかりと溶け込み、日々人々の話に耳を傾けている。
どこの団体も「アート」なんていうまやかしの言葉は使わないし、その言葉自体に対して懐疑的なようだ。わたしはそういう感覚はものすごく大切だとひどく共感している。
世の中にあふれかえっている「町興しアート」。これは本当にその街の人々のことを考えているのだろうか。もっともっと地に足をつけて考えることがたくさんありそうだ。はじまったばかりのtoboでやるべきことはまだまだたくさんある。もっとわかりやすく、もっと伝わりやすく、このことを誌面に刻み込みたい。
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