不自由な肢体

わたしは今、「八幡 見る・知る・遊ぶ」プロジェクト(tobo通信の記事執筆とデザイン、発行)のほかに、映画のエキストラをやっています。特に映画が大好きというわけでもなく、活動の一環として「エキストラ」というものをやり始めたのですが最初の動機は映像作品作りに役立たないか、という不純なものでした。これはもう、作品作りに飢えている者としては必死だったわけで、考えるより行動してしまったと言うのが正直なところですが、はじめはゴールが見えていたわけでも、どんな形の作品にするかも見えていたわけではありませんでした。
最近、7本目の映画に出る機会を得ましたが食品工場のオバチャンの衣装を身に纏って「ただ歩く」だけのエキストラの役どころでした。「ただ、歩く」。こういうことを普段は無意識でやっているくせに、カチンコが鳴った瞬間、普通にできていたこと=無意識が急に意識されてきて奇妙な「不自由さ」を感じ始めます。これは普段は意識していない「目線」を急に意識し始めるからで、その「目線」が意識の上に感じられたとたん、筋肉を意識し、いろいろなものを意識するようななんとも不思議な感覚にとらわれます。まるで自分の体が自分でないような。
7本目にして、わたしの作品作りはどうやら分岐点に来ているようです。これからどのようにしてこの感覚を表現していくのか、もっと考えてみる必要がある、ということと、こうして書いておかないとまた忘れてしまいそうなので備忘録として書いてみました。とりとめもないことですが。