北九州国際ビエンナーレ’09 中国ドキュメンタリー映画の現在

遅くなりましたが「北九州国際ビエンナーレ’09 中国ドキュメンタリー映画の現在」のレポートです。

北九州国際ビエンナーレ’09関連企画 中国ドキュメンタリー映画の現在
(映画上映+トーク「中国ドキュメンタリー映画の現在」)
・上映作品:
■女人50分鐘(女50分間)      監督;石頭(シートウ) 2006年 54分
■自由城的囚徒(自由都市の囚人) 監督;胡佳(フージャー) 2007年 31分
■排骨(パイグー)            監督;劉高明(リュウガオミン) 2006年 106分
・ゲストコーディネーター: 麻生晴一郎(中国の現代アート/ドキュメンタリー映画/アンダーグラウンド文化研究)
・司会:毛利嘉孝(社会学者/東京芸術大学准教授)
主催:北九州国際ビエンナーレ2009実行委員会、特定非営利活動法人アートインスティテュート北九州

【レポート】
これら3本の映画は中国では「映画」とみなされていないものです。それは検閲を受けていないからで、中国政府がこれらの映画を承認しないのは(2本目の「自由城的囚徒」はどの道無理なのは理解できますが)お国柄、と理解する以外ないような私にはとても普通な作品に見えました。

■女人50分鐘はずーーーーっとレズビアンの映像を撮っていたもので、小原市場でその前にワークショップをしてきた身にはなかなかストーリー性がないため辛いものがあり、まぶたの重みとの闘いに必死。よだれがたれていなかったのがせめてもの救いであまりにも断片的にしか見られずになんとなくさびしい気分になりました。

■次の自由城的囚徒は、確か去年かおととし、やはりギャラリーSOAPでトークセッションをやったとき麻生氏が一部だけ流していた映像で、今回は全編に渡って見ることができました。31分という短い時間の中に、中国という国の「官」に雇われ、仕方なしに軟禁状態の撮影者を見張る公安警察は、夏の暑いさなかも、真冬の寒い中も、じっと外で張り付いていなければなりません。そんな彼らの楽しみは、弁当とポーカーだけ。仕舞いには正月、餃子を一緒に食べてもいいか、と彼らは監視しているはずの胡佳夫妻を訪ねてきます。
「一体どちらが真の意味での囚人なのか」
そうつぶやくように胡佳のナレーションが疑問を投げかけます。ものすごく見たかった映像だったので、今回は非常に見ることができてラッキーでした。

■排骨はごくごく普通の出稼ぎ青年の日常をありのまま撮った作品。これが検閲に引っかかるなんて、やっぱりちょっと理解できない、というくらい、民主主義の国では普通の映画です。それもなんとなくドキュメントな感じがしないくらい排骨青年はよくしゃべります。排骨青年は海賊版のDVDを売る違法な商売をしていますが、
「俺みたいな学も知識もない田舎者は、店を開いて商売するしかないのさ」
と言って摘発を恐れながらも、毎日友人と悩みや楽しみを分かち合いながら暮らしているごくごく普通の青年です。それはさながら中国版「トレイン・スポッティング」とも言うべき青年の等身大の姿であり(ドラッグはやらないけど)、確かに自分も若いころはああいう男の子がいたよね(商売は抜きにして)という感じです。映画には妙に詳しく、自分はよくわかっていないと言いつつも案外的を得た評論をしたりしている。
「最近売り上げがいまいちなんだ。よく売れているCD屋のヤツは服も靴もだぶだぶで体に合ってない。つまり、クールってことさ。俺もヤツみたいにピアスでもあけたら、少しは商売もマシになるかな」
と言って、穴を開けて星型のピアスをしたら、いきなり排骨の商売をしていたビルが取り壊されてしまいお見合いにも失敗。ラストは歩道橋の上でDVDを売ることにしたけど、途方にくれてしまい映画はそこで終わります。結局彼は今、海賊版DVDの販売の仕事はやめてしまったそうです。これは映画の外の後日談。

今ようやく「反日、暴動、バブル」も終盤に差し掛かってきたけど(まだ読み終えていない)北京の中心地ではなく、その郊外に暮らす人々は「官」の圧力には納得いかない感覚を持っておりその、「官」の圧力の効果なのか、それとも本来の姿がそうなのか、芸術村で現代アートや映画を撮影している人々は、私たちとなんら変わらない感覚を持ち合わせています。
あのサッカーのアジア杯の暴動も、本当は日本に向けられたものではなく国の圧力に対する唯一の手段であったというだけの話なのです。スポーツは政治によって何らかの圧力を受けることがないため、たまたまアジア杯でそれが起きただけ。そしてその暴動を起こした中国国民の思いというのは、やっと自分たちの主義主張ができた、という感覚だった、と麻生氏は記しています。
こういうものを見聞きし、読むと「普通」という言葉の定義がわからなくなります。自分のなかの「普通」とは一体なんなのか、それは他者にとっても「普通」でありうるのか。そういう揺さぶりをかけられたよい機会だったと思います。(雪)

反日、暴動、バブル 新聞・テレビが報じない中国 (光文社新書)

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