アート徒然考3 共に鑑賞する喜び

zone1969jp2006-11-15

 島から帰ってきてもう半月にもなるというのに、まだ直島での出来事を振り返っています。直島でたくさんの書籍を買って帰ったせいもあるかもしれませんが、私はまだ2年前にはじめて見た家プロジェクトの感動が忘れられずにいます。家プロジェクトの中でもやはり印象深かったのはなんといっても宮島達男の「角屋」とジェームズ・タレルの「南寺」です。ではなぜこの2つが印象に強く残ったのでしょうか。
 最初に訪れたのは「角屋」のほうでした。家プロジェクト最初の作品ということもあって、私が見た2年前でさえ、もうすでに歳月が経っていて、古い家屋とデジタルを使った作品との共鳴がとても心地よかったことを覚えています。玄関をくぐると薄暗い家屋の中一面に海のように水がたゆたっていて、少し揺れる水面の下には赤や黄色のガジェットが時を刻むように点滅しています。まさに無限の広がりというのはこのことでは、と一瞬思えるような、そんな強烈な出会いでした。
 この感覚をここまで強烈なものに押し上げたのには、実はわけがあるのではないかと最近思うのです。それはご一緒させていただいたM先生の存在です。M先生は美術の先生ということ以上に、非常によき鑑賞者でいらっしゃるので宮島氏の作品を見たとたんに「ああ、いいねえ、いいねえ」と繰り返し繰り返しつぶやき、目を細めていらっしゃいました。私は横で「ああ、いいねえ」が繰り返されるたび、「いいねえ」のわけが知りたくなり、より作品に自分から心理的に近づいて見るようになり、その具体性のない「いい」という感覚を共有したのではないかと思っています。
 先日、その宮島達男の「角屋」の解説を、キュレーターの方から教えていただきました。なるほど、確かに作品の解説を受ければ、その作品の持っている意味が急速に具体性を持ち始め、脳みそでは簡単に理解することができます。しかしながら一方では心に持ち続けていた、「私だけが感じた」アートの神秘性が色褪せてしまったようにも感じました。

 話は少し飛びますが、作品にキャプションは必要か、解説は必要か、ということは多くの人がずっと以前から抱えている共通議題です。
 私個人の考えからすると、キャプションはあったらあったでそれはいいこと、なければないで、それもいいことでどちらが「正しい」のかはわかりません。ただ、私の好みから言えば、解説を聞いて頭で感じるのではなく、心で見て心で感じるほうが好きだ、ということは言えます。そのときに一緒に見たり体験したりして「いいねえ」と言ってくれる人がいたら、こんなに贅沢な時間はないのではないでしょうか。そしてその「いい」という感覚は、限りなく抽象的で、どの言葉も当てはまらないもの、というくらい言葉を越えてしまったもののほうが、私にとってのより素敵なアートの鑑賞体験となりうるのです。(雪)