アート徒然考2 アートがアートであるためには

zone1969jp2006-10-31

 2年ぶりに直島を訪れました。まず驚いたのは宮浦の港がきれいに整備されていたことです。モダンな建物に地のものを素材とした食事を出すカフェが付き、ここで直島の情報がほとんどと言っていいくらい手に入ります。また、お土産も買うことができ、フェリーを待つ人の待合室も兼ねていて、ガラス張りの室内からは瀬戸内の青い海によく映える草間彌生の真っ赤なかぼちゃのオブジェがよく見えます。2年という歳月がこれほどまでに島の玄関口を変えてしまったという事実は、私にとって衝撃的なものでした。さらにこの建物がベネッセの財団によって建てられたものではなく、町によって建てられたという事実は、紛れもなくこのアートの群集が島民の生活に深く関わり、今や手放しで受け入れられているということを意味しているように思えました。
 2年前の地中美術館が完成したばかりの頃、私はベネッセの営業するパオではなく島に点在する島民が営業する民宿に泊まりました。民宿の方々の、地中美術館や宮浦地区に設置された美術作品、と皆が呼ぶものに対する、決して無関心ではないけれどどこか「そんなもの、本当に必要なものなのか?」といった斜めから見る目線というのは、私も大いに共感するところでした。なぜなら宮浦地区というのは戦後からの町並みといった風情の、どちらかといえばどこか取り残された感が色濃い寂しさの漂う場所だったからです。その寂しさとは対照的にベネッセハウスや地中美術館といった立派過ぎる建築物がある種の違和感を醸し出し、このアンバランスな感じがまさにアートと島民の事実上の距離感を顕著に物語っていると感じたのです。
 一方、北側の本村地区はというと、戦前からの建物が建ち並び、年月を重ねた家と「家プロジェクト」の作品と、その制作の過程を目撃し共感を覚えた島の人々の、理屈抜きで共鳴しあう関係がとても心地よく感じられました。一体日本のどこに、そこに住むおじいちゃんやおばあちゃんがにこにこと笑いながら作品解説をしてくれたり、切符にスタンプを押してくれたり、道案内をしてくれる場所があったでしょうか。この場所はまさしくここに息づく人々にとって、アートさえもひっくるめた日常的な生活があるのだと、ほとんど感動に近いものを覚えたことを今でも鮮明に思い出すことができます。
 今回、フェリーから降り立ったときに真っ先に感じたものは、とても手入れが行き届いてしまった場所に変わってしまったという一抹の寂しさでした。掘っ立て小屋に近かったフェリーの待合所、島の人が投げかける少しうんざりとした視線は今、この島のどこにもありません。そしてそんな中で、歩けば歩くほど、探せば探すほど、さりげなく置かれているオブジェに出会い「私だけが見つけたアート」といった喜びも、整備された道や道標によって奪い去られてしまいました。代わりにニキ・ド・サンファルの作品を囲っている柵がこの島が現在、アートの飽和状態にあり、島民よりも圧倒的に島の外から来る人々が多くなってしまったことを如実に物語っているように思えました。もちろんそれは“NAOSHIMA STANDARD 2”という長い長い「お祭り」のせいかもしれません。しかし、このハレの日が終了したとき、また新たなお祭り的行事が持ち上がることでしょう。
 今年から直島では長年行われていなかった稲作作りが始まりました。もはや非日常としての役割を果たすはずだったアートは日常に変化し、定着し、その結果島にとっての非日常が稲作になり「アート化」してしまったのです。「できるよ」「無理だよ」と言い合う者の間に漂うアンバランスな関係性が、もしかしたらアートをアートたらしめている要因なのではないか、と思考はもやもやと行きつ戻りつしています。(雪)