アート徒然考5 その感覚を一度疑ってみよ

zone1969jp2007-03-30

 2月4日の北九州市長選の日に「次回はアート徒然考を書きます」と宣言してから早いものでもう2ヶ月が過ぎようとしております。約束なんて軽くするものじゃないですね、と反省したところで、なぜにこんなにも考えが錯綜していたかをとりあえず考えてみるところからはじめてみようかと思っています。
・頭が怠けていたから
・いろいろ見てきたものの、見っ放しにしておいたから
・とりあえず、で全部済ませてきたから
と、理由を考えても要するに頭の中の整理を怠っていたのがすべての原因で、これはつまり今から書こうとしていることがそうそうに簡単には片付けられないということなのかもしれません。(簡単にかたがづいたらどうしよう。)これまで私はいろいろな場所でいろいろな作品群をたくさん見てきました。当然ですが、その中には有名無名関係なく面白いものやそうでないもの等々いろいろな感想を持ちました。時には連れと出かけていき、連れが「これ面白いよね」という作品を見て(どこが?)と思いつつもとりあえずうなずいてしまったものも数限りなくあります。私はこういう相違を「感覚の違い」としか考えていませんでした。
 秋に訪れたジェームズ・タレル安藤忠雄の南寺では、果たして自分が見ているこの光景を私の隣の人や同じ室内にいる人も見ているのだろうか、という漠然とした不安に似たものを感じました。タレルといえば、有名なのは上越の光の館や金沢21世紀美術館地中美術館に設置されている、まるで空を絵画に見立てたような「タレルの部屋」が有名ですが、この南寺は少し趣が違い、ただひたすら真っ暗な中にじっと座っているだけのものです。入室したばかりのときは本当に暗くて何も見えず、一体この部屋に何人の人がいてどのくらいの広さで出口はどこなのかさえもわからず、不安な暗闇に包まれ、手探りで探し当てたベンチにじっと座っている他になす術がありません。
 そんなときにもっと不安を掻き立てるように、同じ室内にいると思しき人々の「あ、見える見える」という声が聞こえてきます。当然自分には何も見えませんし、彼らに何が見えているのかもわかりません。そしてもしかしたら私はずっとこのまま見えないままでここを去ることになるかもしれないなどと考えながら、ひたすらじっとしています。隣の人も見え始めたとき、結局自分にも四角いぼんやりとした光の枠が見えてくるのですが、これは要するに体の機能をフルに活用した作品なわけで、自分の感覚にはいまひとつ自信が持てないためか南寺を出てから一緒に入室した人同士が一体そこで何を見てきたのかをしきりに話し合うわけです。話し合いの結果、大体同じようなものを見た、ような気がする、というところまでは確認できるのですが、その先がどうも怪しい。
 私はこの「自分の感覚にいまひとつ自信が持てない」ということが、実は非常に重要だったりするのかな、などと考えています。
 人は「見えている」という感覚に慣れすぎてしまい、「人もきっと同じように見えているのだろう」と勝手に思い込んだりしています。でもそれを確認する機会など、厳密には実は一度たりともないのです。そのことを教えてくれたのが、多分この南寺なのではないのでしょうか。例えば私が体験した南寺の光の枠は淡いブルーで、ちょっと蛍光がかっていましたが、他の人にもまったく同じに見えているかという疑問はずっと解決しません。または脳科学の分野では、モノを見るのは目ではなく脳だと言われています。
 話を戻しますが、ずっと「感覚の違い」で見過ごしてきたことを、もっともっと丁寧に紐解くべきかもしれないと思ったりしています。というわけで、先日の九博のプライスコレクションの若冲ももっとじっくり見るべきだったと今更ながら反省しております。これはまだ考察が不足していますので、機会を改めてまた書きます。(雪)
※画像 Vancouver Air Port