アート徒然考1 当事者とは誰を指すのか

zone1969jp2006-10-26

前回、「関係者」はいても「当事者」はほとんど見受けられないというようなことを書きましたが、書いてから「じゃあ、当事者って誰のことを指すのだろう?」ということを自分なりに考えてみました。
 「当事者」と聞いて、私が思い出すのは3年前の新潟県越後妻有で行われた「大地の芸術祭」です。松代で行われたシンポジウムに某アーティストが来ると聞き、私はミーハー根性で参加しました。会場は相当広いホールでしたがびっしりと聴衆で埋め尽くされています。そして自分たちが体験した「アート」について、あれやこれやと市民の方々から質問が活発に飛び交いました。驚いたのは、出品者や関係者(内部の人)より圧倒的に市民の方々のほうが多かったのです。
 このことを考えたとき、私なりの考察をするならば、「大地の芸術祭」という出来事は市民の方々の生活に侵入した「なにかよくわからないもの」であり、市民の方々にとっては非日常の出来事だったのだと思います。この非日常に対し、面白がって協力する人、遠くから胡散臭く眺める人、といった具合に市民の方々の反応は様々だったと思いますが、どちらにせよ「このなんとなくモヤモヤした違和感とはなんだろう?」という疑問が個々に芽生えた結果、あのシンポジウムの会場に市民の皆さんの足を向かわせたのだと思います。私は、この「なんだろう?」という感覚を持つことこそが「当事者」としての意識なのではないかと考えます。
 アートが非日常である、と考えたとき、少し話はそれますが面白いものを去年の横浜トリエンナーレで見ました。具体の堀尾貞治さんのパフォーマンス、「あたりまえのこと」という作品です。これは木でできた装置の中に堀尾さんが入っていて、お客さんが100円を入れ、「○○の絵」と注文すると下から注文どおりと思しき即興で描かれた絵が出てくるというパフォーマンスです。これを「100均絵画」と名づけていたように記憶しています。100円均一ショップという我々の生活になじんだ手法を使いはしますが、買えるものは100円均一ショップに売られているような実用品ではなく「絵画」です。つまりお客さんは慣れ親しんだ方法で、実用品ではなく非実用品=非日常を買った、ということになるのですが、クレームも出ずに面白がって100円絵画を楽しんでいる観客の姿は非常に興味深いものでした。
 日本のアート事情を欧米と比較し、それに肩を並べるためには文化水準をもっと上げねば、ということは今も昔もよく言われていることです。しかしながら、アートそれ自体がすでに欧米からの輸入品である以上、同じような戦略で、同じような水準に、といったことを求めるのが果たして正攻法なのでしょうか。日本には日本の土壌があり、事情があります。それを踏まえたうえでもっと丁寧に戦略を練ることのほうが、欧米の真似をするよりももっと面白く、かつ有意義であるように思うのです。
 この続きは、「非日常」が島民にとって「日常」に変化し、アートライフを楽しんでいるという実例のある直島に行ってから、また考えたいと思います。(雪)